昭和46年09月06日 朝の御理解
御理解 第49節
「信心は相縁機縁。」
お互い機縁を頂いて御神縁を頂きます、言わば不思議な縁ですいわゆるそういう一つのチャンスです、矢張りチャンスがなからなければ、仲仲御神縁を頂く事は出来ません。折角御神縁を頂きましても、その縁が段々有り難い事に成長して参ります、段々いわゆる相縁になって参りませんと、折角御縁を頂きながら、只機縁に終ってしまいます。縁が相縁、いわゆるその縁がまあ、判り易く申しますと、結婚の時に相性と言う事を申します、相性が良いと云う事は、それは相縁と言う事なのです。
相性が良いから、夫婦一生健康で、然も仲良うそれこそあなた百までわしゃ九十九までと言う様な縁に育って行く訳であります。不思議な縁に結ばれましても、あっという間に離婚する人達があります、沢山なお金をかけて、周囲の沢山の人達から祝福を受けて、本当に幸せそのものの様な結婚式を致しましても、もう本当にあっという間に縁がくずれていく、これは金光様の信心では、相性の良いの悪いのはありませんけど。
今日の事で、相縁と言う事で申しますと、矢張り相縁でなかった、相性が良くなかったと言う事になります。御神縁を折角頂いて、そしてその御神縁が愈々有り難い事に育って行く、いつでしたかね、近頃頂きました御理解の中に、「梅で開かせ松の世で終わる」という、御理解を頂きましたね、梅で開かせ松の世で終わる、これはたしか、大本教ですかね、大本教の開祖、出口なほ とか言われます、出口王仁三郎のお母さんに当たる方です、大本教の一番発端ですかね。
その方のお筆先という、神様が手を取って、全然無筆の方ですよ、けど筆を持たれると字が出来てくる、字の中にいろんな教えが出てくる、その教えの中に梅で開かせ、松の世で終わると、私はそれをそのまま、これは出口なほさんのお筆先ではない、これは合楽に頂かねばならぬ事だと、これは合楽の御理解と私は思わせて貰いました。勿論その頂き方は違う訳です、だからそれは言葉は同じでありましても、それを合楽風に頂くわけですね、梅で開かせ松の世で終わると、こういうそれはどう言う事かと。
梅で開かせと言う事は、私は信心辛抱だと思います。信心辛抱させて頂いとるうちに、信心がどういうものであるかと言う事、人間本当の行き方はどういうものかと、人間が本当の幸せになるためには、ここのところを離して人間の幸はあり得ないと、いうならば、信心を頂いてはじめて判る、いうなら大変な事、でそれが判ったからというてです、お話を聞いて頂いて、ああなるほど判ったからというて、それが自分の血肉になると言う事じゃありせん。
その教えを頂いて自分のものになる、自分の血になり肉になる、だからこそ、機縁が相縁になるのです、はじめから、ぴったり合うたという人はありはしません。どうも私は信心は性に合わん、まあいうなら誰だってそうじゃないでしょうか、信心が好きで好きでたまらんという様に、教祖様の様な方ばっかりは居りはしません、何が機縁を生むかというと、矢張り難儀です、困った事です。
自分ではどうにも判らない、これは神様になっとお縋がりしなければと、言う様な事から、いわゆる機縁です、縁がそこに生まれてくる、そしてお話を聞けばなる程よかお話、なる程そうであろうと判る、ところが判っただけではね、いわゆる相縁にはならんのです。その御教えが血にもなれば、肉にもなってくるところに、いうなら体質改善です、その体質がまあここで言うならば、私の体質を段々変わらん様なものが生まれて来る、私の思い方と段々同じ様な思い方が出来て来る様になる。
私と同じ様な言うならば、おかげの表れ方も同じ様な表れ方が生まれて来る。いよいよ縁が合うて相縁になって来た話である、その間というものは矢張り梅で開かせであります、簡単にそれが生まれるとは思われない、矢張り泣く泣く辛抱しいしいにと、いうところも通らねばならないし、この寒中にと思う様な時でも、じっと梅の花が辛抱して馥郁とした香りを、周囲に放ち花が咲いて鶯が木に止まって、そしてつぶらな実が稔り、それが梅干となっていくところまでですね。
私は今日は、御理解第四十九節と頂いた時にです、信心は一生が修行じゃと仰有るのは、こういう事だと思うた、相縁機縁で縁が出来た、機縁が生まれた相縁になって来たからというて、すぐ人間が幸になるとは思えない、教えを頂き教えが自分の体質を改善してくれる、あの人は信心される様になつたら、2人見る様になられた、それが梅で開かせ、辛抱せなければ居られない、そこんところをじっと辛抱する。
していっているうちに、なる程辛抱せよと仰有るから辛抱しとったら、こういうおかげになって来たと、所謂松の世で終わる。松の世というのは、ここでは、松という字をくずしますと木偏に公と書いてある、言うなら心が愈々豊かに大きう、しかも美しう雪が降ろうが霜が降ろうが、それこそあの松の緑というものは、色さえ変えないというほどしになって来るね、どういう問題が起こっても。
先日から、日田の綾部さんが頂いております様にです、力ある静けさが生まれて来る、信心辛抱しておるうちに、梅で開かせて貰うておるうちに、自分の心の中にです、松の心が生まれて来る、それこそ、顔色一つ変えんですむように、いつも生き生きとしておれる、どんな場合であっても、おかげと頂かれる、そういうものが生まれて来る訳です。信心はね、いわゆる私は四十九と言う事は、いつも苦労を感じますね。
四十九と言う事はいつも苦しいと言う事、けれどもね、その苦しさというても、その苦しいと言う事は、お道では修行という、苦労にとっちゃ苦労である、だからそれを、修行として頂くのである。ですからその修行の内容というものが、段々変わって来る、松の世で終わって来る。いつも私が申します様に、一生が修行じゃからというて一生貧乏な修行したんじゃつまらん、一生病人であぁ一生が修行じゃからというので、一生が病人であってはつまらぬ様にです。
その修行も又、体質が改善されるに従って、いうならば有り難い修行、尊い修行になっていかなければならん、同時にここでは、松の字というたり、松と言う事だけでも、感動されるでしょう。私共先輩、先達であるところの、小倉の松平先生、久留米の松次郎先生、近くば、甘木の安武松太郎先生、九州の三松と言われるほどしの、まぁ高徳の先生方、そういう先生方の信心を、私どもは一つの基盤とする事が出来る、そういう先生方の信心をこのまま頂いてよい。
そしてその上に、皆さんの信心が育って行く、それに三松と言われる先生方が、御徳を受けられたためには、こういう信心修行をなさった、それを私どもはそのまま頂く事が出来る、頂いた上に、またその上に、大坪総一郎の信心が育って行く、いわゆる私共の信心の、まぁ大本というても良かろう、だから松という字を聞いただけでも感動する、と、合楽の人達は、そうでしょうが。
着物の柄を選ぶでも、松の図柄であったら、あぁこれはおかげ頂いたというでしょう、これは、亀甲の図柄であっから、おかげ頂いた、頂いたものが菊の花の模様が入っとったからおかげ頂いたね、之は合楽で大事にする、亀甲というなら、私の事松といえば、いまの松の事、菊というのは合楽のシンボルの様にいわれる、と言う様にですね、私どもはそういう様な他愛ないといえば他愛がないですけれども、神ながらのそういう働きに、私どもは、いちいち感動するほどしに。
松というそういう信心で終わると言う事が、素晴らしい。梅で咲かせ松の世で終わる、どの様な場合であっても、段々力が出来て来て、それはおかげだよといえれる、色さえ変わらぬ、常磐の松の緑と言う事にある、だから、そういう風に育っていく過程そのものがね、梅の信心である、そういう過程を通らして頂いてるうちにです、展けて来る訳です、自分の心が展けて来る訳です。
昨日、午後からでした、日田の綾部さん達参って見えられました、私は裏の方へ居りましたから、裏の方へ尋ねて見えた、お話させて頂きよりましたら、麻生さんが、日田の麻生さんがお参りになりました、というて来ましたから、それならこちらへ来て下さいと、裏へ来て頂きました、それで日田の人達ばっかりでしたが、お話させて頂きました。高橋さんと久富さんが居られましたから、交えてお話をさせて頂いたり、聞かせて頂いたりした中にですね、綾部さんがこう言う事を云われました。
私は一番いま切実に感ずる事はですね、この信心を合楽に御縁を頂いたと言う事がですね、もう十年早かったらと、もうこれが残念でたまらんと言われます、もう十年早かったら、もっとましなおかげが受けておられたろうにと思いますと、本当に感じますと言われる、さ、それがしかし機縁なのです、縁が無い訳じゃない、高芝さんを通してから、日田の丸亀というて大きな酒屋があって、こういう人が居んなさると言う事は、いつも聞いている事である。
あちらのご主人が、糖尿病で亡くなられた時なんかは、陰ながらの、まあいうたっちゃあの人どんが、信心がわからんから、何一つ不自由しとる訳じゃないから、けれども、叔母になりますから、かげながら、高芝さんお取り次を頂いとられたから、縁は十年もその前から出来ておったかも知れん、けれども、そこに縁が熟したというのは、ようやく、ここ、二.三年てある。
人は私の信心を、あぁ綾部さんが、この頃道楽を変えらっしゃた、もうあの人は信心道楽と言う事を、言う事が聞こえますけれど、親先生、私の場合は絶対道楽じゃありませんといわれる、何故かというと最近、例えば私の方で次々と起きて来る問題だけでも、もし私が合楽に縁を頂いていなかったら、もうそこから、もうこれは私ではない、丸亀全体の運命が変わるだろうと、思われる様な事が続いておりますとこういう。
最近なんかは、先から申します様に、力ある静けさ、今までは、大きな事いいよったごとあったけれども、心では不安を感じとった、ところが、この頃でもそれが自分のものになっとるとは、思われないけれども、親先生が只、言うなと言われるからいわん、親先生が心配要らんと言われるから要らん。先日からあるところから、店員さんが3名雇ってくれというて来た、御神意を伺うてと、私は要らんと思うとりましたら、それが3人共傭わして頂きなさいと言う事であった。
どういう御神意じゃろうかと思いよった、そしたら本当に9月を境に入って来て、どうでも辞めなければならない人が3人出来た。もう神様の働きには恐れ入ってしまうという、そういう恐れ入った生活が、日々出来る様になったと言う事、私はなるはど機縁、あそこにホテルを経営される、高芝さん達がおられる事になった、だからその金光様のお願いをしたから、高芝さん達は、あちらに行かれるようになったとじゃけん、そのお礼だけ私が一寸行かにゃいけまいというて、お礼参拝をして見えたのが。
言うなら縁であったそれから、ああしてしげしげと今では毎日、日参しなければ居られない事になって来た。機縁がその様に、相縁になって来た訳です、そして私と同じ様な意味に於いての、体質が改善して見えましたら、同じ様ないうな切って継いだ様な、キチッとしたおかげが頂かれるようなにった、只今の店員さんの場合でもそうであった、そして本当な意味に於いて、その丸亀というお酒屋さんの内容がね、もう神様が体質を改善して下さっておるという、ものを感じるほどしに、おかげを頂いて来た。
皆さん、金光様の信心をさせて頂くならね、お店をしておるなら、そのお店のね、そのお店の雰囲気とか、在り方とか、段々変わって行かなきゃ駄目ですよ。体質改善されるのですから、変わるのが当たり前、綾部さんが云われる、力あるものの静けさ、もう本当に云わんで済む様になった、これだけは、一つ云うところと思うておるけれども、あの御理解を頂いて以来、ここが静かにしとかにゃいかんと思うて、だから、まだ自分のものじゃないという訳。
本なものじゃない、いうた方が楽じゃと、けど先生がいうなと仰有るから、一生懸命云わずにおる、だから、まだ私の静けさというのは、心ではいらいらもやもやとしながらも金光様、金光様で落ち着いておる。綾部さんそれは、あんただけじゃない、私共でも同じ事ですよ、というてね、厳密に云うたら、それを本当のものにしていく、いわゆる、松の世で終わらせて頂く為に、どんな場合であっても、常磐の松の緑の様な心の状態が育って行かねばならん。
それには、矢張り松、木を大きく、心豊かに大きう、本当になって行かなければならん、折角合楽に縁を頂いたのでありますから、いっときばかり合楽に、あげんして参った事があったたいと、これはもう機縁で終っとる。それはね、ここから見よって、不思議で不思議でたまらんごとある人達がありますよ、あぁもう合楽じゃならんごというて一生懸命に参りよった人がこの頃は、すぽっと参り止めた人がある。
それをある人が心配して行ったところが、先生は良かばってんが、信者どんが気に入らん、だから、信者さんに参りござったっちゃ、あん奴と顔を合わせんならんけん、私は参らんと、何のじゃろうか、先生も愛想が尽きとった訳ですよ、本な事いうと口実です。それは何故その様になつて来るかというと、一つもその人は御理解を頂かん、もう10何年も参つとつたでしょうか、御理解を頂かん、不思議な位だからその、私の血と肉とが私と同じ様になっていかん訳です。
いつまでも、いわゆる、相縁になっていかん訳です、体質改善が出来ん訳です、教えを頂いて、お互い本気でね、自分の本当に体質改善が出来ていきよる、その事の有り難さと云うものが、信心でなからなければならん、修行でなからなければならん。その間は今、綾部さんの事を例にとりましたが、矢張り、梅で開かせと仰るが辛抱するところは、辛抱しぬかせて貰わにゃいかん、そこに松の世で終わられるなあと、自分でも思われる位なおかげが、そこに伴うてくる。
いうならば私が、頂いておるもの、私が受けておるものが、同じ様に皆さんの家庭で、皆さんの日常生活の上に、段々おかげ頂いて来る。いわゆる、合楽流のおかげが、そこに頂いて行く事になる、という事です、だから、いよいよ合楽流のおかげがね、表れて来る様になったら、もう絶対合楽とは離れられないでしょうね、相縁になったんだもの、お互い一つ、まあ今日は いろいろ有りましょうけれども、今日はこの機縁と言う事を、確かにそのチャンスに恵まれた、合楽にお参りをする機会が出来た。
そして段々、段々分らして頂く様になつたら、綾部さんじゃないけれども、あぁこおいう有り難い縁を、もう十年早く頂いとったらと思える様なものに、育つていかなきゃならん、そして相縁である、そして、松のおかげが約束されるのであります。確かに信心は相縁、機縁、どんなに素晴らしい御徳が受けられ、どんなに素晴らしいおかげが受けられる、人間の本当に一番大事な事、又、人間が本当の意味において幸せになれれるというもとです、そう言う事をです。
教えて頂いておりましても耳をかそうともしない、こちらえ姿勢を向けようともしない人がどのくらい沢山あるかわからんでしようが、袖すり合うも多少の縁と申しますから、言うなら合楽教会の前を通つただけでもです、実をいうたら縁なんです、けれどもそれが育つて行かなかつたら、何にもなりません、相縁になって行かなければ、折角神様の、まあ云うなら、切なる願いが、合楽にこの様にして縁を、お互い頂いた、機縁といわなければ居られない程しのおかげを受けた。
ならばそれがどうぞ相縁になつて行くおかげ、しかもその相縁になった事のおかげが、私がこの様に助かると言う事だけでなくて、神も助かり、氏子も立ち行くというところまで、私どもがおかげを頂いて行く事こそ、本当の松の世で終わる事じゃなかろうかと思う。私どもが信心を頂いておると言う事が、神様が助かって下さる、只私どもの小さいおかげが成就したと言う事ではなくて。
私どもの願いが成就していくことが、そのまま、神様の願いが成就していくことにつながるほどしの、ご信心。本当に神有りての氏子、氏子有りての神と、神様も私どももこの神様に御縁を頂いたおかげでと、いえれると同時に、神様も又、この氏子が居って呉れるおかげでと、喜んで下さる様な信心に育って行くと言う事が大きな意味に於いての、松の世で終わるという事ではないでしょうか。
昨日は四十八節でしたね、今日は期せずして、次の四十九節を頂いた、昨日の御理解から頂きあわせて。今日の相縁機縁というところを、確かに機縁を頂いて信心をさして頂いておるが果たして、相縁になっていっておるであろうか。体質改善が出来ていってるであろうか、親先生が頂いておられる様な、体質に自分も近づいていってるであろうか、そこに私は、ひとつ思いをおいて信心を進めて行かねばならんと思います。
どうぞ。